東海道 保土ヶ谷宿
保土ヶ谷に住んで35年になり、さらに東海道沿いに会社を設立したため、Google Maps APIの摘要事例として、旧東海道保土ヶ谷宿の紹介をいたします。 web制作技術を駆使して、時間と空間を超越できるような説明をこころがけます。 ただし現在、保土ヶ谷宿では江戸時代の東海道の面影を残している建物は旧本陣の通用門と旅籠本金子屋の2件だけ。境木の若林家(茶屋本陣)の門、東海道から少しそれた焼きもち坂の(江戸を背にして)左手に萩原代官屋敷跡(門だけ)、品濃一里塚などがまだ残っています。ただこの近辺もここ数年で大きく変化し、今後も残るか疑問です。特に焼餅坂は2000年頃までは藪だったがマンションになってしまい風景が変わってしまいました。 保土ヶ谷宿を紹介するwebページとして最高レベルを目指します。 私が一目も二目をおく、保土ヶ谷の歴史を紹介するお薦めサイト ◆保土ヶ谷郷土史(神明社) 「東海道分間延絵図」を見ることができます。 |
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保土ヶ谷宿の始まり | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
保土ヶ谷宿は、慶長6年(1601)東海道に宿駅伝馬制度が始められたとき、伝馬宿として指定されました。当初は東海道は37の宿駅が指定され神奈川、保土ヶ谷、藤沢でした。ただ保土ヶ谷~藤沢間は4里9町(約17.2km)と距離があり、箱根以東において、この間は起伏も多く(すべての資料は難所とされているが、私は難所には疑問を持っている)両宿の負担は大きかった。そのため戸塚町ではモグリで、人馬を出して駄賃稼ぎをしたり、旅人を宿泊させていたりしていました。戸塚町を支配していた代官は駄賃稼ぎ等を禁止する通達を出した。しかし戸塚町では宿場として認めてくれるよう幕府に嘆願し、慶長9年(1604)に正式な宿場として認められ、保土ヶ谷、戸塚間は2里9町(約8.8km)となりました。なお、神奈川~保土ヶ谷は1里9町(約4.9km)と非常に距離が短い。 ただ、保土ヶ谷~戸塚間は慶安元年(1648)境木から尾根道となる権太坂を通る下の地図に示すルートに変更されました。古東海道については郷史研究家の間でいろんな説があり、当サイトでは「東海道の変遷」のページで詳細に述べます。 ●伝馬定書(てんまのさだめがき) 慶長六年正月、徳川家康は全国統一政策の一環として東海道に宿を設置し、伝馬定書と、伝馬朱印状を下付しました。保土ヶ谷本陣にも残っていて「傳馬ノ定」(本陣文書#1)、「傳馬ノ朱印」(本陣文書#2)と表記されています。各宿では伝馬定書、朱印を携えている者に対して伝馬定書に記載されているだけの人馬を無条件で提供する義務が生じました。その見返りとして地子免除(現代の免税にあたる)がありました。 現存する東海道の伝馬定書は12宿分、伝馬朱印状は22宿分だけとのこと。
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保土ヶ谷宿の規模 天保14(1843)年頃 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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保土ヶ谷宿の範囲 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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宿場の役割 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宿駅は幕府の公用旅行者の利便のために以下の役割のため設けられたもので、即ち ●伝馬役 宿駅には問屋が置かれ、馬や人足が常備されて、幕府の公用旅行者は将軍名義の朱印状や老中・京都所司代等が発行する証文によつて、その文面に示された数の人馬を次の宿まで無賃で、またその数を超過する分は御定賃銭で使用することができました。 大名などは、その身分・石高に応じて定められた範囲で御定賃銭で人馬を使用することができ、それを越える分は相対賃銭で人馬を使用しました。相対賃銭は人馬使用者と駄賃稼ぎの者とが相互に交渉して賃銭をきめるもので、御定賃銭の二倍というのが相場でした。 一般旅行者も宿駅の人馬に余裕のあるときは、相対賃銭によってこれを使用することができました。 ●休泊施設の提供 幕府公用役人や大名等の宿泊設備としては本陣及び脇本陣が、一般の人達の宿泊設備としては旅籠屋がありました。 宿場の運営は厳しかったようで、幕府は目をつぶり旅籠によっては ●逓信業務 郵便制度は明治になってから始まったものですが、幕府公文書の逓送を行なう継飛脚も宿駅の托務の一つでした。もちろん大名や一般の人達も利用することができました。 |
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東海道分間絵図に画かれた保土ヶ谷宿 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
浅間下付近から柏尾の大山街道追分付近まで(詳細に見る場合は上の画像をクリック) |
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名所史跡案内 地図表示 |
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参考文献 保土ヶ谷本陣所蔵文書目録を閲覧するにはパスワードが必要です。 メールを戴ければ折り返しパスワードを知らせます。 |
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