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4 旧中橋(なかのはし)と今井川改修

 旧中橋は慶安元年(1648)の東海道のルート変更に伴い今井川も川筋が変えられ、この付近を横切り「中橋」が架けられました。流路の構造(土木工事の未熟さもあったろう)から大雨のたびに浸水したといわています。
 幕末に至り人馬の往来が急増してきたため、嘉永5年(1852)宿場では改修費用100両を準備するとともに、町役人が200両の借用を代官へ陳情し、認められるとただちにほぼ現在の川筋に改修されました。
「保土ヶ谷区史の第六章第六節橋普請」によると今井川は保土ヶ谷警察署から遍照寺へと迂回して帷子川に合流していたとある。現時点は変更前の流路は不明、今後研究して明らかにしたい。
旧中橋
 ピンの位置が旧中橋が架けられていたと言われています。明治15年(1882)測量の地図でも嘉永5年改修前の今井川の川筋は推測できません。
 古東海道のルートは私が推測したものです。
 右の地図をクリックすると現在の道路を重ね地図を表示します。完全に一致してはいませんが概要は分かると思われます。
 A、B、Cのルートなどが研究者よって唱えられていますがわざわざ60mの丘を登り、現元町に下るルートとなっています。各ルートも保土ヶ谷一里塚は通らず、はるか丘の上から見下ろして通過。古東海道よりもっと古い鎌倉道のルートと誤解しているものと思われます。
保土ヶ谷宿と品川台場建設
 今井川改修で発生した多量の残土の処理に困った名主の苅部清兵衛()は、当時建設中だった品川台場(外国の侵入に備えた砲台)の埋め立て用の土として幕府へ献上することを申し出、3000立坪(約18000m3)あまりの土を舟で品川に運び、この問題を解決したと伝えられています。
本文は旧中橋案内版から転載しました。
(横溝注) 案内版には品川台場とあるが神奈川台場の間違いではとの疑問がある。 「本陣文書の中に、新今井川開削時に出た土を品川台場の用土」とした記述があり、文献上品川台場は揺ぎ無いようだが・・・


 写真は旧中橋から200m程度江戸寄りから上方方向を写したもの。
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