5 宿場運営の中心部(問屋場、助郷会所、高札場跡)
宿駅制度をシステムとすると、保土ヶ谷宿サブシステムを運用するための中枢部門が置かれていたとみなせます。この他、本陣、旅籠、茶屋、酒煮売等の商い行なっていた施設や従事する人々もシステムに含まれます。 右の写真はJRの踏み切りから、高札場、問屋場跡、助郷会所跡(順に江戸方)方面、保土ヶ谷宿の中枢部の風景です。なお保土ヶ谷宿の中心は茶本陣から助郷会所跡あたりまでと云われており、現在の繁華街(?)とは少しずれています。 |
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宿場で賄いきれない人馬を、指定された周辺の村々から動員(徴用)することを助郷と云いました。助郷にはさらに 助郷制度は指定された郷村にかなり負担がかかったらし、当初は問題なく機能していましたが、時代が下るごとに流通が多くなり問屋役人は成るべく助郷の人馬を使用とし、それを嫌がる助郷諸村と問題が発生するようになりました。記録によるとその始まりは延享二年頃(1745)といわれています。 制度の初期の元禄二年(1689)の記録によると定助十ヶ村(芝生村、市ノ江村、三反田村、佛向村、下星川、和田村、坂本村、今井村、大田村、永田村)、大助二十七ヶ村とあります。享保十年(1725)に定められた保土ヶ谷宿の助郷村は加助を含め約40ヶ村、現在の保土ヶ谷区内に留まらず横浜市内におよびました。鴨志田村、十日市場村、金井村等の地名が記録にあります。 こうした助郷村々は助郷動員の指示に対応するため、問屋場の近くに助郷会所という事務所を設けていました。 明治4年12月、伝馬所の廃止と共に助郷も廃されました。 |
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高札場は、幕府や領主の最も基本的な法令を墨書きした木の札を掲示した施設です。通常、土台部分を石垣で固め、その上を柵で囲んだ内部に高札が掲示され、屋根がかけられています。宿場の高札場には人馬の駄賃や宿代などを記した高札が掲示されており、宿内の中心地に設置されました。 ここ以外にも東海道沿いには芝生境、原田、大仙寺下、樹源寺下、元町にあったと云われています。 宿高札場壱ヶ所 字神戸町地内建有之、(東海道宿村大概帳) 宿内ぼ高札場は一ヶ所 神戸町(ごうどちょう)に建っている。 高札にはこのような内容が掲載されていました。 | ||
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