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5 宿場運営の中心部(問屋場、助郷会所、高札場跡)

 宿駅制度をシステムとすると、保土ヶ谷宿サブシステムを運用するための中枢部門が置かれていたとみなせます。この他、本陣、旅籠、茶屋、酒煮売等の商い行なっていた施設や従事する人々もシステムに含まれます。
 右の写真はJRの踏み切りから、高札場、問屋場跡、助郷会所跡(順に江戸方)方面、保土ヶ谷宿の中枢部の風景です。なお保土ヶ谷宿の中心は茶本陣から助郷会所跡あたりまでと云われており、現在の繁華街(?)とは少しずれています。
問屋場跡といやば  
 宿場の中でも重要な施設で、幕府の公用旅行者や大名などの荷物運搬(人馬継立)、幕府公用の書状等の通信(継飛脚)、大名の宿泊の手配などを担っていたのが問屋場です。問屋といやを筆頭に、年寄としより帳付ちょうつけ人足指にんそくさし馬指うまさし迎番むかえばんなど宿役人が詰めていました。問屋役は宿場すべての業務を総括していたため相当の人格・手腕を要しました。したがって問屋役は名主である苅部清兵衛が兼務し、後には一族の苅部清太夫が当たったそうです。
●年寄は問屋の補佐役でした。
●次席の帳付は常に問屋場に控えていて旅人を監視を主な業務としており、「気転がきき眼識が鋭い器量人で、剛腹の者を選んだ」と記録にあります。
●人足指、馬指は帳付の下働で、馬子、助郷、歩行人足の割当を行っていました。
 この他さらに下役として人馬を呼集める迎番、休泊の報知を行う店頭がありました。
助郷会所跡すけごうかいしょ  
 宿場で賄いきれない人馬を、指定された周辺の村々から動員(徴用)することを助郷と云いました。助郷にはさらに定助じょうすけ大助おおすけ加助かすけと細かく制度化されていました。
 助郷制度は指定された郷村にかなり負担がかかったらし、当初は問題なく機能していましたが、時代が下るごとに流通が多くなり問屋役人は成るべく助郷の人馬を使用とし、それを嫌がる助郷諸村と問題が発生するようになりました。記録によるとその始まりは延享二年頃(1745)といわれています。
 制度の初期の元禄二年(1689)の記録によると定助十ヶ村(芝生村、市ノ江村、三反田村、佛向村、下星川、和田村、坂本村、今井村、大田村、永田村)、大助二十七ヶ村とあります。享保十年(1725)に定められた保土ヶ谷宿の助郷村は加助を含め約40ヶ村、現在の保土ヶ谷区内に留まらず横浜市内におよびました。鴨志田村、十日市場村、金井村等の地名が記録にあります。
 こうした助郷村々は助郷動員の指示に対応するため、問屋場の近くに助郷会所という事務所を設けていました。
 明治4年12月、伝馬所の廃止と共に助郷も廃されました。
高札場跡こうさつば  
 高札場は、幕府や領主の最も基本的な法令を墨書きした木の札を掲示した施設です。通常、土台部分を石垣で固め、その上を柵で囲んだ内部に高札が掲示され、屋根がかけられています。宿場の高札場には人馬の駄賃や宿代などを記した高札が掲示されており、宿内の中心地に設置されました。
 ここ以外にも東海道沿いには芝生境、原田、大仙寺下、樹源寺下、元町にあったと云われています。
 宿高札場壱ヶ所 字神戸町地内建有之、(東海道宿村大概帳)
 宿内ぼ高札場は一ヶ所 神戸町(ごうどちょう)に建っている。
 高札にはこのような内容が掲載されていました。
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