9 保土ヶ谷の一里塚
保土ヶ谷の一里塚は日本橋から8番目になります。東海道分間延絵図(とうかいどうぶんけんのべえず)文化3年(1806)刊には、だいたいこの位置の国道上に左塚(南側)だけが描かれているだけです。多くの一里塚は街道の両側に対で造られていますが、なぜか保土ヶ谷は片方だけが明治まで残っていました。 さらに前後の一里塚間の距離も特異で、神奈川一里塚(7番目)からの距離は4.8kmと長く、次の品濃一里塚(9番目)までは3.2kmと短くなっており、昔から郷土史家によっていろんな説が述べられています。 1里≒3.93km この一里塚も明治になり宿駅伝馬制度の廃止にともなって姿を消てしまった状態が続き、2007年1月26日に復元完成されました。場所の制約から「五間四方」に相当する大きさに復元することはできませんでしたが、松並木とともに少しでも往時を偲ぶことができるようになりました。 東海道の一里塚は「東海道一里塚」で詳細に述べています。 以下、保土ヶ谷一里塚の謎について考察いたします。 |
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江戸時代の初期は両方あった? | ||
慶長9年(1604)から東海道および一里塚が築き始められた頃に、保土ヶ谷一里塚も街道の両側に築かれたと思われます。慶長17年(1612)に東海道、中山道についてはすべて完成したと言われています。 保土ヶ谷郷水帳、慶長14年(1609)刊に「…川ふち、 一里塚際、門前…」の記載があることから、当初は一里塚があったことが伺われます。(保土ヶ谷郷土歴史家の大畠洋一氏提示) どこに造られたかというと(現在まで郷土史家が誰も言っていない)、金子屋(旅籠)付近ではなかったと推測しています。 「武蔵風土記所載の正保年中(1644~48)改定の橘樹郡の図に拠れば一里塚から境木まで二十九丁(約3.16Km)とあり、相模風土記所收の正保改定鎌倉郡圖に見ると品野一里塚から境木まで四丁二十五間(約0.48Km)とある。してみると保土ヶ谷・品野兩一里塚間の距離は合せて三十三町二十五間(約3.65Km)となり」(保土ヶ谷区郷土史 昭和13年刊から)の記述からです。境木立場から逆に辿ると約3.16kmの地点は金子屋あたりになります。ただし権太坂ルートです。 右の写真は「東海道絵図」(天和元年2月~同2年刊 1681~1682)で、これには左側にあった一里塚さえ描かれていません。上記の文献と総合すると一里塚が無くなっていたことを意味します。 |
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新町建設のため一里塚は撤去された? | ||
保土ヶ谷宿は現在の本陣跡を中心とするところに江戸初期からあったのではなく、当初は現在の元町だったと云われています。保土ヶ谷区郷土史によると「慶安元年(1648)新町工事着工、万治3年(1660年)新町工事完成」と明記されており、このころに一里塚が邪魔になり、一時撤去されてたのではないだろうかと思っています。 それは上記の武蔵風土記、相模風土記の内容と刊行時期と符号しています。 今の元町は「東海道分間絵図」(元禄元刊 1690)では「本町」、宿場の中心は「新町」と記載されています。 |
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一里塚は何時再建されたのか? | ||
保土ヶ谷区郷土史(昭和13年刊)によると「我が保土ヶ谷宿の中にも一ヶ所あった。位置は保土ヶ谷町の茶屋町橋の北寄りの袂に近く、今で云へば原田久太郎氏邸に入る橋と外川社の参道にかかる橋との中間にあったのである。一里塚は通常往還を挟んで左右両側にあったものであるが、当宿のは早くより南側一つとなったと見えて、元禄三年(1690)絵師菱川吉兵衛の書いた東海道分間絵図に既に片側のみ記してあり、其の後の賓暦六年(1756)、同十二年(1762)、文政七年(1824)等の保土ヶ谷宿絵図に何れも南側のみ図示してある。」とあります。 「東海道分間絵図には既に片側のみ記してあり」この部分には疑問があります。というのは私が持っている東海道分間絵図(初版の複製本)には描かれていないためです。但し、東海道分間絵図の新しい版には修正され、一里塚が描かれていたのかもしれません。 私の推測が正しいなら、元禄初めには再建されたとしてよいでしょう。 元の位置に再建したのではなく、宿場の外れの茶屋橋の先の上方見附の手前に築かれた。本当は上方見附の外で十分にスペースがあるところに両側築くところですが、品濃一里塚との距離がさらに短くなるので、それらしい理由を付けて片方だけですませたのだはないかと思っています。 1 宿場の外れで邪魔にならないところ。神奈川方面で余地があるところは塚間の距離が矛盾するため必然的に上方方面にずらすことになった。 2 一里塚間の距離(神奈川 4.8km 保土ヶ谷 3.2km 品濃)。「難所の権太坂を控えて、気を効かせた」と言い訳にした。 3 両方構築するのは費用がかかるので、地形のせいにして片方だけですませた。 ただし、東海道分間絵図摺本 桑楊編 寶暦二年(1752)江戸吉文字屋次郎兵衞(筆彩色)東北大学附属図書館 狩野文庫画像データベースによると、右塚(現在東海道線)のところに石仏のようなものがあります。もしかしたら両方再建したが災害で壊れたのかもしれません。 |
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