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11 元町

 江戸時代初期の保土ヶ谷町は現在の元町(保土ヶ谷三丁目、本町とも表記される)と言われています。保土ヶ谷宿としては神戸町、帷子町に分かれ元町とは18町(約2km)も離れていて2つの宿場があるようなものでした。  保土ヶ谷郷土史によると慶安元年(1648)新町工事着工、万治3年(1660)完成とあり、慶安元年から保土ヶ谷町はもとの場所から移転したようで、かつて存在していた場所を元町といい、移転後の保土ヶ谷宿を新町と称するようになったようです。
 東海道宿村大概帳によると本陣、脇本陣2(規模から藤屋四郎兵衛、水屋与右衛門)は住所が保土ヶ谷元町となっており、元町から移住して来たことを意味しているのか?
 軽部(本陣)さんによると菩提寺は近所の大仙寺であるが、元町の樹源寺にも墓があるとのこと。元町から移住してきたのかもしれないがよく分からないと言われた。

3種の江戸時代の絵図と地図を参照

東海道絵図の元町付近、明治まで民家は6軒だったと言われいるがすでに天和年間(1680)頃から変わらないのか?


東海道分間絵図 元禄3年(1690)刊では「本町」とある。


伊能図アメリカ大図 享和年間(1803)測量。
東海道分間延絵図の元町部分は神明社ページを参照
東海道名所記に書かれた保土ヶ谷
 浅井了意作の仮名草子(万治3~4年(1660)頃)本の引用は、ほとんど見たことがないが保土ヶ谷に関して次のような記載があります。

 楽阿弥かたりけるは、「むかしは、かたびらの里とほどがやは、ふたつの里也けるが、今はひとつになりぬ。」一村が発句に、
  かたびらの里や名におふさらし布と、いひけるは、此事なるべし。ことのつゐでに、かく思ひつゞけ侍り、
  かたびらを今ほどがやにぬひなして日のくれ毎にとつかはとつる
「一首のうちに、宿を三つよみたり」とて、ことの外、自慢せらるゝ御房のかおつき、おこがまし。

 元町と帷子は2km程度隔てており、万治3年頃でもあたかも二つ宿場があったようなものだったとがうかがわれる。帷子の里とは古町かもしれません。
 慶安元年(1648)から現本陣を中心とする保土ヶ谷宿(新町)の建設が開始され、万治3年に東海道の新路が出来て新町に移る(保土ヶ谷歴史年表 昭和49年 横浜市教育員会編)とあり、すぐ後に東海道名所記が書かれたことが分かる。
元町はどこにあったか?
明治15年測量地図  上の保土ヶ谷歴史年表(原本記載なし)の「万治3年に東海道の新路が出来て新町に移る」とすると現在の保土ヶ谷三丁目の東海道沿いではなく、右の地図の○の部分あるいはもっと西だったかもしれない。
 地図からもわかるように「ほど が 谷」の地名もうなずける。新町は谷になっているが、元町付近になると明らかに谷とわかる。地形による説で、女陰の「ほと」とする説が人気がありますが、ホドは竈の意味があることも忘れてはならない。
保土ヶ谷の地名考については神明社のページも参照してください。
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