7 本陣・脇本陣・茶屋本陣
保土ヶ谷宿には本陣一軒、脇本陣三軒、それに一軒の茶屋本陣があり、大名、旗本、幕府の役人等がこれらの宿泊施設を使用していました。脇本陣は本陣だけでは収容できない場合に使用されるものであったが、後には諸侯の内でも万石以下、旗本等は脇本陣を利用していたようです。一般の旅行者は旅籠屋を利用していました。 参勤交代の大名は箱根を越えて小田原、戸塚、江戸と10里/日の工程が常で、保土ヶ谷宿は通過の宿場でした。したがって本陣や脇本陣は休息所として使われることが多かったようです。さらに保土ヶ谷宿には休息専用の茶屋本陣があり、多くの大名は茶屋本陣を利用したと言われています。 本陣の名称は参勤交代が開始されて以降になるようで、脇本陣の名称は江戸中期以降に生じたもののようです。 以下の明細表に見られるように、二軒の脇本陣は飯盛女を置いており、一般の旅籠屋としての営業も認められていました。 |
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本陣・脇本陣・茶屋本陣明細 - 天保14(1843)年 -
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苅部本陣(かるべほんじん) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
現在は写真の通り通用門だけが残っていますが、往時建坪が270坪もあり部屋数18、畳数140は東海道の本陣の中でも十指(宿村大概帳の建坪順とすると23/184、なにを持って十指としたかは不明)に入っていました。 苅部本陣を定宿にしていた参勤交代の大名はなかったが、年間10藩程度の宿泊はあったらしい。しかしその格式と引き換えに制約や出費も多く、経営は必ずしも楽ではなかったようです。資料によると苅部本陣は代々人格者であったことと、財政的には紀伊国屋文左衛門の次男新四郎の入婿により明治3年の宿駅制度廃止まで役目を全うしました。 参勤交代の大名は旅行に必要な道具は総て携行したと云われています。屏風、風呂、便器まで携行し、もちろん自炊であり、本陣・脇本陣は座敷を提供するだけでした。戦の遠征軍と同様で、ただ野営しなかっただけのようです。したがって宿泊料も心付けでした。 その額は次の通りでかなり厳密にきまっていたようです。 「五千石より萬石内外の往来、休みにして金百疋~二百疋或いは銀壱枚、宿泊にして二百疋~五百疋位までなり・・・往来、休みにして二枚から三枚、宿泊にて一両から三両まで、十七八萬石より七十萬石の家にてもさしたる差別なきものなり・・・」 苅部家? 軽部家 往時は苅部という姓でしたが、現在は軽部に変わっています。それは以下のような泣くになけない事情があったのです。現16代当主から伺った話。 明治天皇の「御東幸」のおりの慶応4年(1868年)、実は明治元年10月11日、保土ヶ谷宿では境木立場の若林家、それから苅部本陣家で休息されました。そのおり、軽部と表記ミスをされたそうです。当時の12代当主は、天皇様に不敬になってはならないと、苅部を軽部に改めたとのことです。小田原北条家の重臣であった苅部の姓を捨てざるを得なかった時代の流れがあったのでしょう。 【事後談】 この話は保土ヶ谷本陣に限らないとのことらしい。江戸幕府を否定する明治政府の陰謀というか、低俗な仕打ちということが考えられる。 |
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●茶屋本陣跡 元治元年(1864)の茶屋本陣(九左衛門)の規模 建坪63坪(約108㎡) 間口10間(約19.1m) 奥行6間半(約10.9m) 室数8 門構付 代々九左衛門を襲名し、元禄から享保年間までの80年程休んで、享保から幕末まで年寄役を務めた。 門構を持つ茶屋で、本陣としての特権を持ち茶屋本陣と呼ばれ、本陣を休息所としない多くの大名がここで休息したと伝えられる。 |
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