新明解国語辞典を読む 013 | |
更新:2006年11月29日 |
新解さんと夏目漱石 3 |
今回も漱石の引用です。 ●いくら【幾《等】(副) 〔「ら」は接辞〕 (一)[1] (A)数量の上限を おおよそ…程度であると見積もることを表わす。〔狭義では、値段について言う。例、「月に—あれば暮らしていけるだろうか」〕「妾アタシや貴方アナタより—〔=どれほど〕落付いてるか解ワカりゃしないわ」 (B)金額や数量の多少を問題にすることを表わす。 「お—ですか/そんな例は—でも〔=たくさん〕ありますよ/—でも〔=たとえ少額でも〕融通が付けば付いただけ助かる/世の中に同姓同名は—もある〔=決して珍しくはない〕/たしか先生は漱石と—も〔=たいして〕違わぬ明治の出生だったと覚えている」 (二)[0][3] (A)どんなに そう△したところで(であっても)大局には影響を与えるものではない、という判断を表わす。「—制度を変えても、受験生に序列の意識がある限り、同じことだと思うのですが/私の胃病なんか、—薬を飲んでも同じ事ですぜ/自然が結んだものは、—能才でも天才でも、どうする訳にも行かない」 (B)極限すれすれの事実を認めた上で、次の命題の成立・不成立を問題にすることを表わす。 「—江戸っ子でも、どれほど たんかを切っても、この渾然コンゼンとして駘蕩タイトウたる天地の大気象には かなわない/—居候の身分だってひもじいに変りはない/—猫だって相応に暑さ寒さの感じはある」 長い引用になりましたが、漱石から引用オンパレードです。 「妾や貴方より—落付いてるか解りゃしないわ」 (三四郎か??) (1)「私の胃病なんか、—薬を飲んでも同じ事ですぜ」 (吾輩は猫である) 「自然が結んだものは、—能才でも天才でも、どうする訳にも行かない」 (吾輩は猫である??) 「—江戸っ子でも、どれほど たんかを切っても、この渾然コンゼンとして駘蕩タイトウたる天地の大気象にはかなわない」 (坊ちゃん??) 「—居候の身分だってひもじいに変りはない」 (吾輩は猫である??) (2)「—猫だって相応に暑さ寒さの感じはある」 (吾輩は猫である) 「吾輩は猫である」からの引用部分です。 (1) 「一体医者の薬は利くものでしょうか」 甘木先生も驚ろいたが、そこは温厚の長者だから、別段激した様子もなく、「利かん事もないです」と穏かに答えた。 「私の胃病なんか、いくら薬を飲んでも同じ事ですぜ」★ 「決して、そんな事はない」 「ないですかな。少しは善くなりますかな」と自分の胃の事を人に聞いてみる。 「そう急には、癒りません、だんだん利きます。今でももとより大分よくなっています」 「そうですかな」 (2) 『人間から見たら猫などは年が年中同じ顔をして、春夏秋冬一枚看板で押し通す、至って単純な無事な銭のかからない生涯を送っている様に思われるかも知れないが、いくら猫だって相応に暑さ寒さの感じはある。たまには行水の一度位あびたくない事もないが、何しろこの毛衣の上から湯を使った日には乾かすのが容易な事でないから汗臭いのを我慢してこの年になるまで洗湯の暖簾を潜った事はない。』 ●たとい[2][3][0]タトヒ(副) 「たとえ(仮令・縦令)」の本来の言い方。 「多感多恨にして日夜心神を労する吾輩如き者は—猫といえども主人以上に休養を要するは勿論の事である」 『主人の如く器械に不平を吹き込んだまでの木強漢ですら、時々は日曜以外に自弁休養をやるではないか。多顧多恨にして日夜心神を労する吾輩如き者は仮令猫といえども主人以上に休養を要するは勿論の事である。只先刻多々良君が吾輩を目して休養以外に何等の能もない贅物の如くに罵ったのは少々気掛りである。とかく物象にのみ使役せらるる俗人は、五感の刺激以外に何等の活動もないので、他を評価するのでも形骸以外に渉らんのは厄介である。何でも尻でも端折って、汗でも出さないと働らいていない様に考ている。』 泥棒に入られても「ニャン」ともなかず、鼠もとらない猫だから、多々良君が、こんな役立たずは猫鍋にして食ってしまおうと言ったことにたいする気持ちを言っているところ。 漱石の時代は猫鍋もごく普通だったのか・・・ このようにざっと漱石の小説からの引用をみてきました。 ほかにもまだあると思うのですが、用例の引用は副詞が多いようです。 漱石に特定できていませんが、候補はまだまだあります。 (最近まだ視力が落ちたため、追跡できません) 漱石は、いろんな当て字を考案(造語)しており、特に多くのオノマトペを最初に小説へ記述したのではないかと思っています。また副詞を漢字で表記(それも造語)したもの特徴です。誤用も多いです。一所懸命を一生懸命と最初に使ったもの漱石と思えます。 (オノマトペの使い方がもっともうまく、たくさん使うのは「さいとうたかお」だと、井上ひさしが言っていますが、説得力があります) なぜ、新解さんに(他の辞書でもやはり出典が漱石というのも多い)漱石から引用が多いかと私なりに考えてみました。 現代の文章、つまり私がアップしている文章もそうですが、これを考案したのが漱石であること、先に述べた副詞もそうです。つまり漱石に敬意を表しているものと思われます。 ところで漱石の小説ですが、面白くないですね。特に「吾輩は猫である」は疲れます。どうでもよいことをグダグタと書きすぎていて読むには「桃尻語訳 枕草子」よりも気合が必要です。日本で最初の現代小説とうことで今でも読まれているのでしようが、漱石が最初にもっとストーリーの優れた小説を発表していたら、現在の小説も代っていたのではないかなんて野母ってしまいます。 私は同じ時期の三遊亭円朝の創作落語の方が優れていると思っていますが、落語は文学よりレベルが下と当時のインテリは見向きをしなかったのでしようか? 三大怪談「牡丹灯籠」「真景累ヶ淵(しんけいかさねがふち)」「乳房榎(ちぶさえのき)」のストーリー性に対して漱石などの明治の文豪は足元にもおよばない。どれも幽霊が出てくるところが有名ですが、怪談噺でも因縁話でもなく、江戸末期の人情が、そのストーリーともにえがれています。 と、私が漱石を批判しても始まらないですね。 ただ、漱石の小説は、全部にあたって共通性がなく、「吾輩は猫である」においても途中からタッチが変化しています。つまりいろいろ小説の書き方を試していたのでしようね。日本の文学史に残る重要な人物には違いがないですね。 |
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