緑内障顛末記
作成:2006年1月1日

 皆様も私のようにならないため、35歳を過ぎたら眼圧の検査をしましょう。
 そのときちゃんと眼圧の値を覚えておいてください。将来大いに参考になるはずです。
 緑内障とはどんな病気かは日本眼科医会 目の健康情報を参照してください。

2006年、2007年の状況
 眼圧は安定していて、1.5ヶ月ごとに定期診察に行っている状態。視力は当然良くはならないが悪くなることもなく、仕事は問題なくできています。

2005年の状況
 7月ころまでは非常に順調で元々の近眼に戻り、まともな眼鏡を新調し調子が良いときは視力が0.9のときもあり免許更新も希望的になった。読書も出来るようになり、嬉しくなりました。
 白内障の症状が出てきたかなぁと感じ出した。
 7月末の定期診察で予想通り「後発白内障」ということで、レーザーで切開することになった。
 後発白内障とは、白内障手術の後遺症で眼内レンズを入れた袋が濁るもので、手術後数ヶ月から数年で発生することがあるそうです。
 手術は外来で(入院なし)8月25日行いました。
 目にレーザー用のコンタクトレンズを当て、レーザーを照射して濁った袋を切り取るもので、白土先生(主治医)は缶きりのようにぎこぎことやるような要領といいながら、20回程度レーザーを照射された。ぱちぱちと音がするたび頭の中心を突っつかれるようで気持ちが悪かったが手術は成功

 9月21日免許更新(6月頃より見え辛かった)、10月3日の定期診察では 8/15(左右の眼圧)と左の方が少し高くなっていた。(眼圧15mm/hgは普通の人は全然問題ない数値、眼科では通常単位を言いませんがmmHg。以下単位は省略)

 10月中頃から眼圧が高くなったなぁと自覚できる程度になった。予定外で10月31日に診察に行くと、8/27と予想通りヤバい状態になっていた。
 ニードリング処置をしてもらい16まで下がったが、思わしくない状態であるため、1日おきに通院。
 最初のニードリングの出血で、マッサージ以外の処置が出来ず、またジワジワと眼圧が上がっている状態。
 11月10日、血が晴れたところで、本格的にニードリング処置。かなり冷や汗が出たが、成功し現在8/8と良い具合で眼圧は落ち着いています。

2004年の手術中、先生から開業したら予約システムを安く作って欲しいなどと、話していたので約束通り開発しました。uソルとしての最初のパッケージソフト(しらと眼科オリエンテッドシステムであるためパッケージとするには改造が必要であるが眼科ならあまり手間をかけずに行けるだろう)となりました。1月4日から本稼動。

 ニードリングとは緑内障手術の部分が塞がるため針で穴を開ける処置。
 50μの精度が求められる処置で、不器用な医者には出来ない。
 最初に手術した、関東逓信病院の手術方法が悪くニードリングを考慮したものではなく、私の緑内障がこじれた原因にもなっています。


緑内障年表
時期 手術・処置
1991.02 mac world のカンファレンスに出て大型のマルチ画面の中央が汚れてることに気が付く。目を動かすとその汚れも動くので自分の目の問題であることを自覚し、会社近所の眼科に行ったところ、緑内障でウチでは手に負えないと、関東逓信病院(五反田、主治医はI先生)を紹介された
1991.02.20 関東逓信病院へ行き眼圧を測ると両眼とも30を超えていた。後日、視野検査を行なったところ左目は50%程度視神経をやられていた。右目の視神経は問題なかったがほっておけば視神経がやられる状態。
1991.秋頃 眼圧を下げる飲み薬(ダイアモックス)の副作用で尿管結石となり、目薬だけで眼圧を下げることになった。ジリジリと眼圧が上がって行く。
1992.02.05
〜02.20
左目1回目緑内障手術
1992.04.20
〜05.06
右目1回目緑内障手術
1993 左目2回目緑内障手術
 この手術は余計だった。現主治医に代わってなんで2回の手術をしたのかと言われたが手術をした関東逓信病院の問題である。
 つまり、若い人は緑内障手術で開けた穴がどうしても塞がることが多いので、後から針で穴を開けるられるように処置すべきで、2回も手術すべきではないこと。なにが起こるかわからないので、極力手術をやらないようにしなければならない。
1995.05.16 こんどは左目の眼圧が下がり過ぎて、視力が低下。1.0あったのが0.4
 主治医が退職し、関東逓信病院では手に負えないと東芝病院を紹介され移る。
1995.06.16
〜06.17
左濾過胞内自己血注入手術を左目に対して行う。
 東芝病院では初めての手術で、退院のとき手術名がDBに登録されおらず後日会計となった。
 手術名を登録すれば会計できるのでは私が言うと、なるほどと主治医が手術名を考えているような始末で、結局土曜日であったため登録できず。
1996.10.17 東京大学付属病院に移る
 左右とも眼圧が下がり過ぎて運転できない状態となり、東芝病院の主治医がボス(現、白土先生)に相談したところ、ボスが診察するから東大病院に行くようにとのことで移動。
1997.02.26 左目flap形成術
 外来(日帰り)で手術。 。
1998 白土先生が東京医大勤務となったため、一緒に移る
 病院は新宿だったが、毎日診察されるときもあり高尾でも受ける。ここ2年は高尾へ行っていた。
2000.11〜2004.8 白土先生が過労のため倒れ、丁度この頃視神経がやられている左の眼圧があがる。
 30を超えており、診察した医師から白土先生に報告すると言うことで1ヶ月またされ、この間さらに視神経をやられ現在の状態となる。眼圧が30になったとき他の病院に移るべきだった。1月末、通院すると白土先生が復帰していて即、ニードリングされ眼圧は正常になったが、手遅れであった。
 約4年、眼圧が高くなったらニードリングと一進一退であったが、落ち着いた状態だった。
2004.8 眼圧低下
ここ数年、視神経をやられていない右目の眼圧が4から6と低めで落ち着いた。本当は10程度にならないと視力が出ないが、仕事をする上では問題なし。
左目は80%程度視神経がやられていて失明状態。生命保険会社の失明の定義は視力が0.02以下となっており見舞金が出るが、現在0.03で失明ではなく残念と言うべきか複雑な気持ちである。
主治医からは、目をぶつけたり、手で擦らないように注意されていた。昨年8月頃からディスプレイが見づらくなってきたので眼圧が低下したのだろうと思っていた。8月中旬の診察で案の定、0〜1程度になっていた。
このままでは、視力が落ちるのは時間の問題だということで、もれているところを縫うため1週間程度休みを取るように言われ、9月13日に手術を行なうことになった。
9.13〜 結膜縫合手術(13日、外来で日帰り)
1週間自宅療養。週末には調子が良くなり、「移動体追跡処理装置、移動体追跡処理プログラム及び移動体追跡処理方法」で特許を申請していたので、営業用のデモ版を完成させようと、flashをつくったりプログラミングを行なっていた。
簡単に言うと、インターネットによるGIS地図を利用した駅伝実況システムです。
9月末ごろからまた見えにくくなり診察したところ、縫ったところがダメになっていて眼圧が0になっていた。
目を擦ったりしたのではないかと言われたが、縫いかたが悪かったのではないかと思っている。手術前より見えなくなってしまって「もっと悪くなるまで待てばよかった」と後悔したものだった。
10.18〜10.26 10月19日、ブレブ再建手術
手術室に入って2時間かかったと家族に言われた。この日は台風だった。今までの左4回、右3回の手術のなかで最も辛いもだった。
主治医の説明によると、白目の部分を削り、もうそのまま縫えないので、結膜を引っ張って、パッチすると言わた。同時に最初の緑内障手術(土管を開ける)の再建を行なうだった。
 1週間入院して眼圧も15程度になり理想的で、仕事もできるようになり、11月1日から会社に出ました。
10.27〜 3日にどうも眼圧が高くなったのではないかと感じた(目が曇ってきた)。
4日は午後から大阪へ出張で新幹線では寝ていた。新大阪に着くころ、外を見ると濃霧でビックり、ところが車内も同様。眼圧が40以上になったようである。
最悪は梅田で地下鉄乗場に向かうときで、目が見えなくてしばし動けなくなった。眼圧を下げるべく目のマッサージを繰返したところ何とか動けるようになりホテルにたどりつく事ができた。
横浜に戻り早速、病院に行くと眼圧が予想通り42となっており、ニードリング処置を受け15まで下がった。 ただ、この処置がもたなくなり、11月22日の週は毎日通院状態となり、25日通院したところそのまま入院となった。
11.25〜12.6 11.29 白内障と2回目の緑内障手術
もう手術しなければならない、さらに今回はかなり危険が高いと言われた。度重なる手術で、白内障にもなっており、緑内障手術にレンズが邪魔しているため、人工レンズ(白内障手術)にして2回目の緑内障手術を受けた。
結果は主治医もビックリするくらい成功でした。このままの状態を維持できると普通の生活ができるだが。
2004.12.22〜 白土先生が東京医大退職し、医院を開業されたので一緒に移る
 四谷になったので時間的に非常に近くなった。

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