最後の登山(白馬) 1999年8月21日
記:2003年1月1日

 先日、鶴見の石井スポーツに行って、登山用具がハイテク化されていたのにびっくりしてしまった。当然軽量化されより機能的になっている。しばらく見てまわり、手に取っては凄いと唸ってしまった。なかでもGPS内臓の電子コンパス、携帯ナビにはしばし目を奪われてしまった。わずか150gの端末に1/25000の日本全地図が搭載できる。別の機種では自分のいる位置の風景があらわれ目標となる山名が表示される。
 方向音痴の人間が使い、電池が切れになったり故障したら迷子になってしまうではないか、小さい端末であるから表示が小さし機能も限定されている、もし私が買ったら装備にPCが必要になってしまう。
 用具は発達したが使用する人間が高齢化し肝心な体力が低下したため(全般的に登山者の技術レベル=体力が低下)、罪作りかもしれない。

 最後に登山したのは1999年の夏でした。(まだ左目の視神経は50%生きていたころ)
 猿倉まで運転して行き適当なところでキャンプ、翌朝6時下の娘と白馬を目指した。山頂付近の小屋で泊まるつもりだった。
大雪渓上部 20年前はここも雪渓だった
 ところが稜線に出たところで天気が悪くなり、山小屋が1泊9000円もするようになっており、生ビールに後ろ髪を引かれる思いであったが下山。17時に猿倉に戻って来た。かなりな強行軍であった。娘は雨の中をはんべそを書きながら大雪渓を下った。私は歳のせいか左膝を痛めてしまった。こんなことは40年の登山の中で初めてあった。もう昔のような山登りはするなと言うことであろう。
 この後、白馬村まで下山、食料を買出しし、五竜方面の林道に入りこみ誰も来ないと思われるところでキャンプ。横浜から2泊3日で1人で運転して行き結構疲れたが、まだ目が見えていたのでこのような登山もできた。

【15年振りに白馬に登って】
 登山者が非常に多くなっていること、乗用車も非常に多くなっている。我が家も車で行くようになったし・・・
 おまけに高齢化している、平均年齢は60歳を越えているように思える。そう急いだわけではないが我々親子(娘は中学1年)は誰からも追い抜かれなかったし、追い抜くばかりであった。
 大雪渓がかなり萎んでいた。温暖化の勢いは凄い。あと10年で大雪渓は消えないだろうがもう大雪渓と呼べなくなるのではないだろう。
 お花畑が荒れ果てていた。登山者の絶対量が多すぎると思われる。入山制限が必要と感じた。
 山小屋で、娘にシロウマと言っていたら、お節介婆さんに「ここはハクバと言うのよ」と注意され開いた口が塞がらなかった。時代が違ったのだと反論する気もなくなった。
 多くの登山者が高山植物の名前を知っていた。植物図鑑を片手にしている人も多く、昔日の思いであった。植物図鑑を持って登っていたのは私くらいであった。

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