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登録数:14件

 1 第二代横浜駅 大正4(1915)年
横浜市認定歴史的建造物
特徴  2003年マンション建設に伴い、旧東横線高島町駅駐車場の跡地より、第二代横浜駅舎のレンガ基礎やプラットフォ-ムの遺構並びに旧横浜共同電灯会社の発電所遺構が出土した。
 明治5年、現在の根岸線桜木町駅の地に初代横浜駅が開業したが、スイッチバックによっていた東海道本線との接続が不便なため、既に当地にあった旧横浜共同電灯会社の発電所を移転し、大正4年に鉄道院の設計、清水建設の施工により建設開業されたのが第二代横浜駅である。当駅には貨物線、東海道本線が乗り入れ、初代横浜駅は桜木町駅に改称し京浜電車線が入り、駅舎を挟み3路線が交差した。第二代横浜駅の駅舎は煉瓦造2階建で、正面中央に八角塔を載せ建物の平面形は不等辺三角形であり、ルネンサンスとセセッションの折衷様式を加味したとある。駅舎正面は現在の高島町交差点に面していたが、高架貨物線が正面を横切り美観を損ねることから当時は物議を醸したそうである。地盤が埋立地で軟弱だったため、基礎工事には当時としては最新の場所打ちコンクリート杭が打設築造された。1階には出札所、手荷物受付、案内所、駅長室、乗客は奥コンコースを通り2階へ上がる。2階には待…
 2 旧横浜船渠第1号・2号ドック 明治29(1896)年
国指定重要文化財
横浜市認定歴史的建造物
特徴  英国人技師パーマーの提言に基づき、「横浜船渠株式会社」によって第2号ドックは明治29年(1896年)、第1号ドックは約2年遅れの明治31年(1898年)に竣工された。第2号ドック日本に現存する商船用石造りドックとしては最も古い。これを後世に伝えるべき資産として、平成5年(1993年)に復元して生まれたのが、イベントスペース「ドックヤードガーデン」である。
 港と共に発展を遂げた横浜。横浜築港計画は明治19年(1986)に横浜財界人が「横浜桟橋会社盟約」をなし、その計画を英国人H.S. パーマーに委嘱したことに始まる。パーマーは、港の経営に築港事業はもとより船渠と倉庫などの港湾関連施設の整備の必要性を説き、これを受けて設立された「横浜船渠株式会社」は、2つの石造りドックを中心に本格的な船舶修理設備を整え、横浜港発展の基礎を造った。第2 号ドックは、海軍技師恒川柳作氏の設計による。以来、明治・大正・昭和を通じて港町「横浜」の発展と共に活躍してきたこのドックは、昭和40 年代に入り、船の大型化、小型船修繕の中小造船所への移行等により使用頻度が急速に低下、昭和48年にその機能を停止…
 3 大岡川河口護岸・下水口
特徴  大岡川河口周辺は、明治5年(1872年)初代横浜駅(現在のJR 桜木町駅)が開業し、陸運と水運の拠点として大いに賑わった要所である。ここに明治初期英国人技師ブラントンの設計により石積護岸が整備された。荷揚場の階段と共に一部が保存・復元されている。
 また、明治初期に関内の外国人居留地一帯には、ブラントンの設計による陶管製の下水道が敷設されていたが、人口の増大と衛生状態の改善の目的で明治14年(1881年)、日本人技師三田善太郎の設計により煉瓦造の下水道建設に着手した。ここに居留地の下水の大岡川方流口の遺構が残る。
 4 旧灯台寮護岸 明治6(1873)年 / 明治30(1897)年
横浜市認定歴史的建造物
特徴  旧灯台寮護岸がある場所は、明治2年に灯明台役所が設置された「灯台事業発祥の地」である。英国人技師リチャード・ヘンリー・ブラントンらが、この地で日本の灯台網整備の計画を行った。さらに、灯明台役所の工作機械を使用しながら、日本初の鉄の橋である吉田橋の部材製作が行われるなど、日本の技術史上記憶されるべき土地であり、旧灯台寮護岸はこの明治期の記憶を伝える遺構。汽車道に残されている護岸とあわせ、自然石による護岸が続く景観は、みなとみらい21 地区の現代的な景観と対比をなし開港の歴史を伝えていくこととなる。
 5 港一号橋梁、新港連絡線鉄道線路護岸 明治42(1909)年
明治43(1910)年頃
特徴  港一号橋梁(AMERICAN BRIDGE COMPANY 1907製造)は、新港埠頭へと延びる海陸連絡設備の一環として建設された臨港鉄道の橋梁の一つである。鈑桁橋(ばんげたきょう)+ 鋼プラット・トラス橋(クーパー型トラス橋)の組み合わせによる。
 新港連絡船鉄道線路護岸は、谷積石垣が鉄道関係の擁壁築造技術の系譜を物語る。傾斜が緩やかでのびやかな表情の景観が創り出されている。

 6 新港埠頭・ハンマーヘッドクレーン
特徴  新港埠頭は明治32年(1899年)から海面埋立工事が行われ、その後、1917(大正6)年に陸上施設整備を含む埠頭整備が完了した。この結果、埋立面積約230,500 m2、岸壁延長約2,060m、鉄道上屋11 棟、木造上屋3棟、レンガ造倉庫2棟、50 トン起重機(ハンマーヘッドクレーン)1機、その他鉄道、道路、上下水道、発電所等が完備され、わが国初の近代的埠頭として、横浜港の中心的役割を担うこととなる。
 埠頭には、明治32年(1899年)当時、海上輸送貨物の荷さばきやこれに伴う一時保管を行うための建物である鉄骨造上屋が建設されている。大正6年(1917年)には、臨港鉄道が追加整備されており、海上輸送と陸上輸送の接点としての土地利用がなされていた。その後、大正12年(1923年)の関東大震災により埠頭が大規模に水没してしまい、その修復のため大量の瓦礫による埋立造築がなされており、同時に崩壊した陸上施設の整備も行われている。第二次世界大戦においては、港湾施設への被害は少なかったが、敗戦による大規模なGHQによる接収から横浜港は一時的に貿易港としての港湾機能を失っている。その後、…
 7 赤レンガ倉庫(1・2号倉庫) 大正2(1913)年・明治44(1911)年
横浜市認定歴史的建造物
特徴  正式名称は新港埠頭保税倉庫。保税倉庫としての役割は1989年(平成元年)までに終え、その後しばらく放置されていた。全長約150メートル、階数は3階建て一部4 階に揚重機室を設置、背面に鉄骨造ベランダを持ち、日本初のエレベーターや避雷針、消火栓を備える。本体はイギリス積煉瓦、大量のドイツ製鋼材を使用し、煉瓦品質規格も厳しく、表積みは極上磨き煉瓦、裏積みや塗下は並上煉瓦、腰や窓台、笠積みには鼻黒煉瓦(焼き締め煉瓦)、1階は3枚積み、上階は2.5枚積みし、厳しい適正調合セメントモルタルを使用した。赤レンガ倉庫は、国営保税倉庫建築の模範となるとともに、組積造技術の最高段階を示す建築とされる。また、明治24年の濃尾地震の教訓により、純煉瓦造から耐震化(※1)を目指し、レンガとレンガの間に鉄を入れる補強が施されていたことで、大正12年(1923年)に発生した関東大震災でも、被害は1号倉庫の約30%損壊にとどまった。技術的に完成された煉瓦造から鉄筋コンクリート構造への過渡期の建築及び近代的設備を付帯した建築技術や工法を遺す国内最大級の煉瓦造建築物として、また、近代港湾施設の先駆として大変貴重な建物…
 8 旧税関事務所、 旧横浜港駅プラットホーム 大正3(1914)年・昭和3(1928)年
特徴  明治32(1899)年より始まった横浜税関の拡張工事に伴い、大型船舶が直接接岸できる岸壁方式の新港埠頭が造成され、構内には赤レンガ倉庫(保税倉庫)をはじめとする税関諸施設が建てられた。貨物取扱などをおこなうこの事務所建築が煉瓦造3階建として建てられた。その後、大正12(1923) 年に発生した関東大震災で内部を焼失し、建物は復旧されることなく撤去され、跡地は長く荷さばき場として利用されていた。
 平成6(1994)年に赤レンガパークの整備に際して地中より事務所の煉瓦基礎が発見された。荷重を分散して伝えるための特殊な煉瓦積みが確認されるなど、大正時代の煉瓦造建築の基礎構造を知ることの出来る貴重な遺構として、赤レンガパークの沈床花壇として利用されながら当地に保存されている。
 横浜港駅は明治44(1911)年に横浜税関構内の荷扱所として建設され、大正9(1920)年横浜港駅となり、東京駅から初の汽船連絡列車(岸壁列車)が乗り入れた。昭和3(1928)年プラットホームが設けられ、華やかな海外航路時代の最盛期を迎えることとなった。プラットホームの遺構は赤レンガパークの休憩…
 9 象の鼻 慶応2(1866)年
特徴  横浜港開港の前年、安政5年(1858)米、蘭、露、英、仏と修好通商条約が結ばれ、横浜村のほぼ中央に設定された運上所の北側海面に東波止場(イギリス波止場)と西波止場(税関波止場)の2本の突堤が幕府によって建設され、横浜港最初の波止場が完成した。大きい東側の突堤は当初長さ60間(約100m)幅10間(約18m)といわれる。慶応2年(1866年)の大火後、両突堤は湾曲するように延長され、現在の形の原型が出来上がった。東側の突堤はいつの頃からかその形状から「象の鼻」と呼ばれるようになった。それに対して、西側の小さい突堤は「子象」の相性で親しまれていたが、現在は大きく形を変えている。
10 鉄軌道・転車台 明治20年代後半頃
特徴  この鉄軌道及び転車台(ターンテーブル)は明治20年代後半頃に整備されたといわれる。軌道の幅員は1.06m であり、我が国の一般的な鉄道軌道の幅と同じである。転車台の直径は約2.5mであり敷地内の荷役作業の為の小型車両を転回させるための設備であったと考えられる。この遺構は2008年、象の鼻パーク整備工事の際に地中から発見され、当地に保存されている。
11 居留地煉瓦造下水道 明治20年代後半頃
国登録有形文化財
特徴  英国人技師ブラントンの設計によって明治初期に外国人居留地に下水道建設が成された。明治10年代にはいると居留地人口の増大によって下水道容量を超過し、管の詰まりも頻繁になり改修を望む声が高まった。そして、神奈川県は技師三田善太郎の指揮のもと、明治14年(1881年)から明治20年(1887年)にかけて、山下居留地の下水道網を煉瓦で作り替える大工事を行った。この時に敷設された煉瓦造の下水道は、山下町の各所の地中から発見されている。
 昭和57年(1982年)に開港広場の整備工事中に、地下から下水道マンホールが発見された。居留地時代の都市インフラの記録として価値が高く、国登録有形文化財として当地に保存されている。
12 横浜都市発展記念館中庭実物展示・旧居留地消防隊地下貯水槽
特徴  居留地では、近代的なライフラインの整備が始まると共に、都市の地下には様々な種類の埋設管が設置されるようになった。横浜瓦斯(ガス)会社によるガス事業では、横浜の街にガス灯をともすために、居留地全体にガス管が埋設された。また、明治初期に陶管による下水道網が形成されていた居留地の山下地区では、後に煉瓦管への改修が行われ、さらに、明治20年(1887年)には鋳鉄管の水道が引かれた。
 横浜都市発展記念館の中庭にガス灯、ガス管、煉瓦下水道管の実物が屋外展示されている。また、同敷地内に旧居留地消防隊地下貯水槽の遺構が残る。当地は幕末から居留地消防隊の本拠となった近代消防ゆかりの地であり、ヴォールト構造の4 室に区画された煉瓦造地下水槽は横浜市認定歴史的建造物として当地に保存されている。
13 山下居留地遺跡
特徴  横浜市中区山下町に神奈川県が建設した「神奈川芸術劇場」の敷地において、工事に先立つ(財)かながわ考古学財団による本格的遺跡発掘調査の結果、幕末から明治期の旧山下居留地の遺構が多く出土した。敷地内には、旧居留地時代のコッキング商会、イリス商会、モリソン商会など外国商館建物遺構、道路・下水道・ガス管など都市基盤遺構、ガラス杯など当時の外国人の生活を示す出土品など、横浜近代の歴史を物語る遺構が、大規模に、かつ良好な状態で現存していることが判明した。これらの遺構は、慶応2年の大火、大正12年の関東大震災、第2次世界大戦、そしてその後のビル建設などによって、そのほとんどを失った旧山下居留地の様相を今日に伝えることのできる、我が国にとって極めて貴重で稀有な歴史的資産である。この貴重な歴史的資産の価値を正しく検証し、未来へ継承するために、専門家と市民等によって「山下居留地遺跡の価値を考える会」が、2007年12月14日に設立され保存活動を進めた。これを受けて、神奈川県及び事業関係者を加えた保存活動組織「山下居留地遺跡保存活用検討会議」が設立され、充分な価値の検証を行い、遺構の一部が敷地内に保存され…
14 開通合名会社(日本人商社)の煉瓦遺構
特徴  中区北仲通にあるこの煉瓦遺構は、明治時代に建てられたと推定される「開通合名会社」の社屋の一部であると考えられている。建物は、大正12 年(1923 年)9 月1 日に起きた関東大震災で大部分が倒壊したが、その 一部が震災後の復興建築の内部に奇跡的に残されていた。その建物の解体時に発掘されたこの遺構は、所有者の意向により、横浜関内地域の日本人商社建築の記録と、関東大震災の記憶を伝える歴史的遺産として現地に保存されることになった。
 開通合名会社は、横浜港から陸上される貨物の通関・発送取扱事務を営んでいた商社で、大蔵省で税関貨物の取扱事務の経験を積んだ服部敢(はっとりかん)により、明治10 年(1877 年)1 月に創立された「開通社」の社名を明治24 年(1891 年)「開通合名会社」に改名。社屋は、レンガと石を組み合わせた外壁を有し、屋根は瓦葺きで建物の両側面にはうだつ(防火壁)を設えていた。この遺構は写真赤枠の部分1 階中央の出入口と右側の窓部分及び右側側面の壁の一部であると考えられている。写真は明治38 年(1905 年)頃のものと推定される。