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8 旅籠屋

 保土ヶ谷宿には宿場時代の唯一の建築物である旅籠屋であった本金子屋が残っています。ただし、江戸時代のものではなく明治になって新築されたことが、2010年度の調査で分かりました。
 ただし、建築年代は明確でないと結論づけられています。概要は以下の通り。
 課税台帳では「明治元年」と記載されているとのことである。しかし土蔵において、明治19年の墨書銘が確認された。また金子家では「主屋は明治8年(1885)建築」と言い伝えられている。
 関東大震災を契機に国道拡幅が行なわれ、そのとき7mの曳家が行なわれ、さらに昭和7年(1932)に前面の国道一号が現在の幅員に拡張されたさいに、前庭と大名門があったが、撤去されたと云われている。このときの大改修で、門と式台の構えが巧みに組み入れられたとしている。
 案内版では明治3年築となっているが、出展が明確でなく根拠のないもと結論づけられた。
水彩画
 村田啓輔さんの水彩画
 左端に組込まれた門が描かれている。
旅籠屋(はたごや)
 旅籠屋は一般の旅行者の多くが利用した宿泊施設です。語源は「馬の餌」を入れる竹で編んだ籠と云われ、平安時代末に民間の宿屋が出現すると「馬駄飼(はたご)」と呼ばれるようになりました。1603年に刊行された「日葡辞書」に「ハタゴ、ハタゴセン、ハヤゴヤ」が出ていることから江戸時代の初期から存在していたことがわかります。
 江戸幕府が定義する旅籠屋は食事(夕食、朝食)を提供する宿屋で、木賃宿(自炊の宿屋)と区別され、旅籠屋は後に道中奉行の管理下に置かれました。薪代を支払い、持参した食料を自炊していたので木賃と称したとのこと。
 江戸初期は木賃宿が主体だったらしく、交通量の増加にともない食事付きになって行き、寛永10(1633)年代に寛永通宝が大量に発行されたことで、貨幣を所持した旅行ができるようになり、旅籠屋の数が増加し定着しました。
 旅籠屋は問屋の配下にあり幕府からの助成金が配分されていたが、木賃宿は問屋の配下ではなかった。しかし木賃は幕府が規定していた正式な宿泊所でした。
  木賃
和暦(西暦)主人従者
延宝3(1675)年以前16文8文16文
延宝3(1675)年以降32文16文32文
正徳1(1711)年35文17文35文
 幕末になると60~72文と非常に高くなったようですが、左記の表の正徳1年の金額は保土ヶ谷宿の高札に掲げられたものと、保土ヶ谷区史に記載されています。
平旅籠と飯盛旅籠
 宿泊と飲食を供する平旅籠と、売春婦を置いた飯盛旅籠に分けるのが一般的なようです。通常飯盛女(めしもりおんな)と表記されますが江戸幕府は飯賣女と表記しています。
 江戸初期からあったようで公娼(こうしょう)に対して宿場女郎のような私娼は認められないため、御上に対する方便として「旅人の食事の給仕をしているもので、たまに売春もした」ということで飯盛女と呼ばれるようになったようです。保土ヶ谷宿の資料によると宿場女郎と表記した方がよく売春専門でした。
 いろいろ問題になったのでしょう、幕府は享保3(1718)年に「飯賣女の数を一軒につき二人までと禁止令」を出しています。さらに寛政元(1785)年には「服装は麻と木綿のみを用い派手にならないよう」に命じた。文化11(1814)年も同様の禁止令が出されており、通達が守られなかったからであろう。
 飯盛旅籠はその売上金の一部を問屋へ上納し、宿場経営上なくてはならないものだったようです。天保14年の保土ヶ谷宿の旅籠の内、8割強(49/59)が飯盛旅籠でした。さらに3軒の脇本陣の内、2軒は飯盛女を置いていました。
 詳細は「東海道保土ヶ谷宿の飯盛女(齋藤富一著)保土ヶ谷図書館蔵」を参照されたい。
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